核大戦後、寒冷化した地球の夜の冷え込みは、尋常ではない。ガスマスクをしなければ、有害な放射能性降下物や揮発性有機化合物、さらには目に見えぬ紫外線の影響で視力すら失う。生物の存在を否定するかのような地上の深い静寂を、マスクの遮光メガネ越しに眺めていた冷泉艦長は、胸元のポケットをまさぐった。
そこにタバコの箱がないとわかっていても、やらずにはいられない所作に自分でも苦笑いを洩らしながらも、冷泉はそのまま架空のタバコを取り出して、火をつけて、煙を吸ってみた。紫煙の苦みを遠い過去から取り出して、息を吐き出す。マスクが濾過する吸気口から出た息が、白い靄となってはき出された。
艦長ともなれば、他の乗員と違って個室があてがわれるのだが、いまは艦の外に出て、艦内の様々な事情から一度離れ、頭を切り換えたかった。艦体中央部に位置する艦橋構造物後部・信号甲板に一人佇む冷泉艦長は、《希望》と艦名が記された鐘――かつては艦内の時刻を知らせるために使われていたが、現在はシンボル的存在としてその形を残す――を目にして、複雑な心中をさまよった。
「希望、か……」
思わず洩らした言葉がため息を伴う。主機安定稼働のための検体への〝処置〟はすでに済んだと報告を受けていた。いまは廃人――兵器の一部であり、人間らしさを失った彼女は完全なコード番号に変えられていた。いまは主機に接続し、稼働実験を行っている最中だろう。
東京支部からは物資と人員を確保した。あとは出発するだけだ。慣れない人間関係と意思疎通が図れない現状に、艦内の不満がくすぶり始める頃だ。本来なら乗員に上陸許可を与えて、半日でも休暇を与えるべきところだったが、いつ『かの国』の攻撃を受けるか予断を許さない現状からすれば、それは叶わぬ夢だった。
そのとき、轟音を響かせて、上空を『かの国』の無人偵察機が行きすぎていった。その真っ黒な機体が影のように空を這っていく。修復作業を早く終わらせて、発艦準備を進めなければと想いを新たにした冷泉は、人員配置も刷新しなければとまた別の懸念事項にぶちあたった。
検体と共に艦内に乗り込んでいるという売国奴の少年の処遇。いまは機関長の下で修復作業に従事していると聞くが、このまま連れて行くわけにも行かない。しかし、この廃墟の街に置き去りにしていくのかと自問し、どうするべきか悩みの種を増やした冷泉がため息をもらした。
刹那、腰の通信端末が冷泉を呼び出すように震えだした。「こちら艦長」腰のベルトに手を当て、マスクに内蔵されたマイクに短く応えた。
「通信電波を確認しました」
鷲尾副長の声を忍ばせた報告だった。
「確かなのか?」
「残念ながら、間違いありません……」
『かの国』に現在位置を探知されないために、《エスピランサ》はすべての通信は遮断しているはずだった。定時の暗号通信以外で電波を傍受したとなると――艦内の要員が家族や恋人と連絡をとろうとしているのか? 否、艦内要員は生き延びるための整備作業でそれどころではない。すぐさま予想されうるリスクを頭のなかに並べた冷泉は、
「発信源の特定は?」
と問うた。
「艦橋構造上層です」
「なに……?」
思わず冷泉は艦橋構造を振り返った。反射的にホルスターから自動拳銃を引き抜く。この近くに、無断で通信している要員がいる。警戒の色を濃くした冷泉は、
「要員を寄越してくれ」
と令した。
「艦内に売国奴(マゴット)がいるかもしれん」
「はっ」
緊張を帯びた声で鷲尾が応える。
「このことはくれぐれも内密に行え」
艦内における過労やストレスに、さらに疑心暗鬼など引き起こせば、戦闘集団としての《エスピランサ》は崩壊してしまう。副長ならばわかるなという言外の圧を感じ取ったのか、鷲尾は「心得ております」と応えて通信を終えた。
ガスマスクの吸気音を押さえつつ、ゆっくりと艦橋構造上層へと近づいていく。拳銃を腰に近づけ、訓練された動作でにじり寄っていく。壁越しに様子を窺うと、通信アンテナや自動発射装置といった機器になにかを取り付けているらしい人影があった。
目を細め、闇にうごめく影を見定める。いよいよ自動拳銃(ハンドガン)のグリップを強く握った冷泉は、いっきに踏み込んで、銃口を人影に差し向けた。
「止まれ!」
人影がびくりとこちらを振り返った。銃口を向けられているのにもかかわらず、相手は怯むどころか、両手を挙げながらこちらに歩み寄る余裕すら見せていた。
慣れているのだ、こういう状況に。ここから逃げられると思っている。舐められたものだと舌打ちしたい思いで、冷泉は自動拳銃(ハンドガン)を握りなおした。
「ここは爆破される」
意外にも、人影が発したのは女の声だった。たしか検体の世話係をしているという要員ではなかったかと記憶をまさぐった次の瞬間、腰を落として人影がこちらに突進してくる。
不意を突かれた冷泉はためらわずに引き金を引いた。乾いた銃声がバンッと空気を振動させ、夜の静寂(しじま)に一瞬、火花が散る。視界が悪ければあたるものではないと心得ているらしい人影は、鈍い光を放つサバイバルナイフを腰から取り出し、冷泉の懐に飛び込んできた。
さっくりと自分の身が切られ、滾るように熱い血が放出されていくのを知覚した刹那、急激な悪寒に襲われて身をふるわせた冷泉の意識は、そこで暗転した。