医務室で目を覚ましたナナは、相変わらずの真っ暗闇の視界に絶望した。〝彼女〟と、《エスピランサ》とつながっている間は、目が見えるのに、というすこし寂しいような複雑な心境を漂った。手をまさぐり、どうやら自分は医務室のベッドで寝かされているらしいことをたしかめたナナは、室内に人気を感じて、一転、警戒の色を濃くする。
「誰か、いるの……?」
誰何すると、体をぼくんと反応させ、「えっ!?」と驚いたような声を上げた。聞き覚えのある少年の声だったことで少し安心したナナは、彼が看病に疲れて寝ていたのだな、と気づいた。
「ヒロ……なの?」
「俺のことがわかるのか?」
「あなたが……わたしを連れ戻してくれたんでしょう?」
ヒロはなにも応えなかった。ナナの内なる意識は、〝彼女〟――つまりは幻影――という絶対的な外部性へと引きずり出されつつあった。ヒロは、彼女のエネルギーが衰えていくのに気がつき、ナナが強い外的な力――あるいはむしろ外部性という強い力――に吸収されつつあったのだと理解する。ヒロが介入しなければナナは外部へと消え去り、彼女の身体と生命力は幻霊の世界とその破壊的なエネルギーに飲み込まれてしまっていただろう。
「余計なことしたかな……」
「いえ……ありがとう」
「帰ってこれて、よかった」
ヒロがふっと笑う声がしたかと思えば、ドアをノックする音が医務室に響いた。つづいてドアが開く音がして、「加奈さん……」とヒロが驚きの声をあげた。
「いままでどこにいたんですか……」
「爆破された艦内の応急処置を手伝っていたんだ……」
加奈の声に、いままでとは違う雰囲気を感じ取ったナナは、なにか違うと思った。彼女の声の色が、一段暗くなっている。不安や恐怖を感じている声だ。乗員たちだって抱えている。でもそんなんじゃない。まるで逃亡犯が警察に追われているときの、追い詰められたような声……。
「加奈さん、なにかあったんですか?」
「ん?」
思い切って問うと、あきらかに相手は動揺した声で応じた。言い訳を探す時間を稼ぐような曖昧な受け答えに、ナナは自分の直感が当たっていたのかと確信を強めていった。
「私は……次の停船予定時刻を伝えに来ただけだ……」
咳払いし、動揺を打ち消した加奈にそれ以上、なにも問えずにいると、
「《エスピランサ》は、どこへ向かってるんですか?」
ヒロが言った。
「沖ノ鳥島だ。衛星軌道上大型輸送路(マス・ドライバー)で《エスピランサ》を宇宙に打ち上げるらしい」
刹那、ナナの脳内に突然、日本を焼き尽くす光の映像が知覚された。熱風が頬をうち、肌を焼き、光のエネルギーが踏みつぶしていく……
「やめて!」
そういってナナは顔を伏せた。
「どうしたんだ……」
「響が……言ってる。日本が、消滅するって……」
「日本が……?」
「これから日本には大規模な核攻撃が行われる」
走馬燈のように脳内を駆け巡った映像を、ナナが思い返す。光が日本を焼き尽くす――響の感覚を追体験したかのようにナナを襲ったこの不思議な感覚はなんなのか。わからないままに、核攻撃が行われるという事実だけが、妙に胸を騒がせる。
「《エスピランサ》は、どうするんですか?」
ナナがようやくの声を絞り出すと、
「逃げるんだろうさ。売国奴(マゴット)しかいない日本を、『アポロン』が守る義務も義理もない」
加奈が嘲笑混じりに応じる。
たしかにそうだった。ここまで日本を破壊したそもそもの原因は、あまりにも無責任で自分のことしか考えない、身勝手な売国奴たちのせいないであって、自業自得ではないか。
しかし――響はそれではいけないと言っている。否、そう言っているような気がする。ナナは内心で言った。核攻撃を阻止しなければならない、と。
「それじゃだめ……」
知らぬ間に声に出していたナナが、自分の言葉に自分で驚く。
「それじゃだめって……どういうこと?」
訊ねてくるヒロにナナは、響の思いと自分自身の思いを整理するかのようにゆっくりと口を開いた。
「日本が世界地図の上から消滅する――地球規模でみれば、ちいさな島国が消えただけでも、局所的には大きな変化を及ぼす。気温が一度下がっただけで、収穫物が冷害を被ることだってあるの。波及効果が及ぼす地球への影響は甚大なものになる。少なくとも、日本が核攻撃で消滅した場合、ふたたび地球は寒冷化し、生きとし生けるものは存在しなくなってしまう……」
「しかし、核大戦を経ても尚、人類は生き延びている」
加奈が疑問を差し込んでくる。
「それは響が介入したからよ」
「響が……?」
「あの核大戦による地球寒冷化の影響を最小限に食い止めるために、響は光に感応する力によって、自分自身を触媒に世界を救ったの。けれど、その能力故に〝彼女〟は少女として、人間としての運命を諦めなければならなかった……。〝彼女〟は解体され、そして再構築(インスタンス)され、ケイ素結晶体――シリコンのなかに閉じ込められたの」
「それが、『オプト・クリスタル』精製の秘密か……」
驚いたように加奈が言った。
ナナが頷く。響の孤独や悲しみが胸に迫ってきて、一瞬、言葉に詰まったが、ナナはつづけた。
「それは〝彼女〟が愛した人たちと、そこで暮らすすべての生きとし生きる者を守るための犠牲だったのよ」
「まるで本人から聞いたような口ぶりじゃないか?」
真実に触れた動揺を押し隠すかのように、加奈が訊ねる。
「もちろん聞いたのよ――〝彼女〟自身からね……わたしは《エスピランサ》の地下納骨堂(クリプト)にアクセスしたの」
「地下納骨堂(クリプト)?」
ヒロが問うてくる。
「『オプト・クリスタル』の深層部に隠されたプログラムが書き込まれた(スクリプト)場所、〝彼女〟の、響の記憶よ」
「では……《エスピランサ》とはいったい……・」
言葉を切った加奈に応える形で、ナナは言った。
「この特務艦は、日本再興のための方舟でもなければ、旗印でもない。この船は、かつて核大戦後の地球を救った響を永命させるための揺りかご。もし地球が大変動(カタストロフィ)を迎えるときがあれば、光の力で地球上の生命を救う――少なくとも、《響ⅩⅢ号システム》を開発した技術者たちの想いはそこにあったのよ」
「だが、意図せず『アポロン』に利用されてしまった?」
ふたたびナナは頷いた。
「協力しなければ売国奴(マゴット)のレッテルを貼られてしまう。民族消滅の危機に瀕しているにもかかわらず、世界平和を謳う技術者は、ただの狂科学者(マッドサイエンティスト)にしか見えなかったでしょうね……」
「じゃあ、今度の核攻撃も、《エスピランサ》が防げばいいじゃないか」
ヒロが割って入ってくる。
「しかし、それは《エスピランサ》が『アポロン』に反逆することを意味している。鷲尾艦長が賛成するとは思えないな」
加奈が言った。
「どういうことです?」
「《エスピランサ》は、宇宙へ向かうんだぞ?」
「だって、地球が……人類が滅亡してしまうんですよ!?」
どうして当たり前のことがわからないんだという怒りにまかせて、ヒロが声を荒げる。静寂が医務室を訪れ、ヒロが我にかって「すみません、加奈さんのせいじゃないのに」と謝った。
「彼らはそう思ってはくれないさ。大人は、プライドや思想が邪魔をして、真実を見る目を曇らせてしまうからな」
「でも……」
遠慮がちにヒロが口を開いた。
「いまの鷲尾艦長なら、話ができると思います」
意外な所見に、今度はナナがヒロに問う番だった。
「どうしてそう思うの?」
うーんと唸りながら腕を組んで思案したヒロは、「『なにかできることがあったら言ってくれ』って、そう言われたんです、艦長に」と応えた。
「そのときの艦長の目は、社交辞令やその場しのぎの嘘を言っているようには思えなかった」
たしかに、東京支部を出発してからの鷲尾艦長は印象が少し変わっていた。職業軍人として、また副長として、サイボーグのように命令を完璧遂行する番頭のような印象があったのだが、いまはこうしてヒロとナナの面会を許してくれたり、ナナに休息の時間を与えてくれたりもしている。
「それに――」
ヒロがつづける。
「艦に乗り込んでいるのは優秀な高等施策集団(テクノクラート)なんでしょう? 核攻撃による環境の激変をデータを突きつけ、理論的に説けば、わかってくれるはずです」
「だと、いいのだが……」
ため息とともに加奈は言った。
「わかっていても、認めようとしないのが、大人の悪い癖なんだがね……」
「とにかく、時間がないわ」
ナナが言った。
「私は響の地下納骨堂(クリプト)にアクセスして、もう一度核攻撃を受けた場合の地球に起こる大変動(カタストロフィ)がどのようなものかデータをそろえてみる」
手伝うよ、と乗り気のヒロを横目に、どこか加奈は気のない返事をするだけだった。