【第3章 日米共同】

第18話

 およそ1年ぶりに会う父の寝顔は、見る影もなかった。

 連絡を受け、手配してもらった飛行機で米国に飛び立ったのが2日後。
 コロラド州コロラドスプリング市総合病院にたどり着いたときには、父が倒れてからすでに5日が経過していた。

 病室にはいま父と2人きり。
 母は仕事先に連絡をするために病室を出ていた。
 
 大熊寛子はまるで現実感がないままに、父が眠るベッドの脇の椅子を引いてかけた。

 担当医の話によれば、容態は安定しているもの意識不明の状態が続いているという。
 心労と肉体的疲労を色濃く浮かべた父の頬はこけ、くぼんだ眼窩の奥からは虚ろな視線が加瀬に合っている。
 病に蝕まれている、そんな印象だった。

「父さん……」

 呼びかけてみたが、反応はない。

 重たい吐息を洩らした寛子は、1週間前に交わした父との会話を脳裏に呼び起こした。

 仕事人間の父親に遊んでもらった記憶は、寛子にはあまりない。
 休日も仕事に打ち込むような父だったので、外食に行くときはいつも母と 2人きりだった。
 
 だから、ときどき父が仕事を見せてくれるときは嬉しかった。
 3年前、打ち上げを見に連れて行ってくれたときは、父が関わっている宇宙開発の壮大さは伝わってきた。

 父さんは、世界を救うためにがんばっている。寛子はそう信じていた。

『私、父さんの会社、継ごうと思う』

『米国に遊びにこないか?』

 と連絡があったとき、寛子は自分の決意を語った。
 大学院へ進むか、それとも就職するか。
 自分の将来を考えたとき、寛子が思い描いたのは、父と同じように世界を救いたいという思いだった。

 ところが、父の反応は期待したものとは違った。

『継がなくていい』

 父は大学院を諦め、家業を継いだ。
 だから、寛子には家にすばられず、自由な進路を進んでほしい。
 寛子のためを思っていってくれていることはわかる。
 
 でも、寛子は心の底から父に憧れていて……。

『女のお前に務まるはずがない』

 いうことを聞かない寛子に、思わず洩らした父の言葉が引き金となって、つい口論になった。

『父さんは勝手だよ!』

 そういって寛子は国際電話を一方的に切ってしまった。

 なぜ、あのとき、そんなことを口走ってしまったのか?
 ケンカなどしたくはなかった。

 なのに、なぜ……走馬灯のように脳裏を駆け巡る、飄々とした父の横顔。
 いつも無精髭の顎を擦るあのくせ。
 意識の回復しない父の寝顔を眺めながら、寛子は何度も自分を責めた。
 
 そこへ不意に、

「寛子さんかい……?」

 と背後で起こった声にはっとして、寛子は振り返った。
 病室のドアに初老の日本人男性が佇んでいる。
 お見舞いにきてくれたのだろうか?
 
 どこか見覚えのある男性の雰囲気に「あのう……」と寛子が戸惑う声を洩らすと、初老の男性は「ああ、そうだったね」と自己紹介をはじめた。

「いつもお父さんにはお世話になっています。光響大学の白河です」

 律儀に頭を下げて白河と名乗った老人はいった。

「あ、《響20号》の……」

 思い出した。
 父と二人三脚で高出力レーザー施設を研究している人だ。
 父は確か「センセイ」と親しく呼んでいた気がする。

「この度はわざわざどうも……」

 老人の声は憔悴しきっている。
 どうぞ、と寛子は自分が座っていた椅子を白河に譲った。

「悪いね? それじゃ……」

 ドスッと座り、白河は呼吸器につながれた大熊を見やった。
 その眼差しに、

「お父さんには悪いことをしたね?」

「え?」

 白河教授は光響大学では鬼と恐れらている。
 常に厳しく自らを律するその姿勢は、自分に厳しく、他人に厳しくで有名だった。
 重箱を突くようなねちっこい白河の〝詰め〟にひるんだ学生が何人もいる。
 そんな噂だった。
 
 そんな厳しい指導者の印象とは真逆の、年老いた声の調子に寛子は驚きを隠せなかった。

「いつもお父さんには頼りきりでね……クマさんには本当に無理をさせちまったよ」

「そう……ですか」

 クマさん、と従業員たちから慕われている父の姿は、寛子も記憶にある。
 家業を継ぐと宣言した寛子に『女には無理だ』と父はいったが、労連の職人たちになめられないよう、工程管理する社長業が父の代わりに務まるのか?
 
 そんな不安は当然ある。
 
 それでも、父と寄り添っていたい。
 やっていることは京都のちいさな工場の切り盛りかもしれない。

 でも、そこには夢があった。
 
 人の技術で世界を救うという、夢が。

 そして、寛子の目の前にいる白河教授が、父にその機会を与えてくれた人なのだ。

「クマさんはねえ、いつも寛子さんのことを話してくれていてね?」

「わたしのことを?」

 意図せず自分の名前が放たれて、寛子はどきっとした。

「父がどんな話を?」

 と白河に問う。

「あいつ、倒れる直前、寛子さんとケンカしたことを後悔してたよ」

 うっと寛子は胸が詰まる思いだった。

「日本でも有数の技術力を持つ、大熊電機の社長で、手先は器用なくせに娘には不器用でね……笑わせるよ、まったく」

 大熊の寝顔を見下ろす白河の横顔を眺めながら、寛子は、

「ええ……」

 と応じる。

「どうやったら仲直りできるか。相談に乗っていたところだったんだ。私には子供がないから、私に聞くのはお門違いだとこたえたがね?」

 寛子はどう反応していいものかさえわからなかった。

 ごめん──でも、伝えたかっただけなんだ。
 心の底から、大熊電機を継ぎたい、と……。

「どうだい……寛子さん?」

 そういって大熊から寛子に視線を移した白河の目は、潤んでいた。

「こいつと仲直りしてやってくれないかね?」

「はい……」

 そうこたえる寛子を、白河は何度も頷いて「ありがとよ」と礼をいった。