PHASE=003 幽鬼 the Curse of the School
1
ぴちゃっ、ぴちゃっ……。
漆黒の闇に包まれた廊下の先で、水滴がこぼれ落ちる音が反響して聞こえてきた。
蛇口が緩んでいるのかもしれない。
静謐[せいひつ]な夜の校舎で起こった突発音に身をこわばらせた紅光響は、となりの石英すみれの腕をぎゅっと抱えなおした。
顔を見合わせ、水滴の音だと一応の納得をつけてうなずきあう。
廊下を照らすのは、避難経路を示す非常灯の陰鬱な光のみ。
緑の微光だけが、冷たい光沢を放つリノリウムの床ににじんで伸びていた。
(行くぞ……)
先を促す≪アンコ≫の媒質通信[オプト・リンク]が響の脳内に届く。
(時間を無駄にはできん)
殿[しんがり]を務める≪アンコ≫は暗闇に怯える少女たちの心理がまるで理解できないというように平然と言うのだった。
前に向き直った2人は、ふたたび廊下を歩きはじめる。
少しでも物音を立て、“相手”に気取られるわけにはいかなかった。
足音を立てないよう、抜き足差し足忍び足で進まなければならない。
懐中電灯にも利得媒質[オプト・クリスタル]にも頼らず、恐る恐る安全確認をしながら真っ暗な廊下を進んでいくのは、ひどく時間がかかった。
深夜の校舎に、緑色の燐光[りんこう]を放つ人魂があらわれる――。
最初に目撃したのは、遅くまで部活動の練習のために校舎に残っていたハンドボール部の生徒だった。
この人魂に関する憶測は、怪談話として瞬く間に全学年へと広まっていく。
“プール事故でこの世を去った生徒の霊”
“ピアノ発表会前日に事故死した霊”
“病気がちで一度も学校に登校できなかった少女の霊”
……いつのまにか数種類のバリエーションが生まれるに至った。
怪談話が広まりだしたのはちょうど、外宇宙より飛来したケイ素生命体自律制御[セルフ・ガバナンス]型群[スウォーム]兵器≪ジェイド≫が京都の町に散らばった時期と符合する。
学校に≪ジェイド≫が侵入しているかもしれない――。
真相を確かめるべく、響たちは深夜の校舎に侵入し、こうして廊下を見回っているのだった。
(もしさ……《ジェイド》じゃなくって、ほんとうに人魂だったらどうする?)
暗闇が苦手な響は、内心の怯えを誤魔化すように、≪アンコ≫とすみれにリンクする。
(君たちの言う人魂は、いわゆる空気中の放電現象に過ぎんだろう?)≪アンコ≫が応じる。(≪ジェイド)でなかった場合は、君たちに危害はないんじゃないか?)
(幽霊は放電現象なんかじゃないよお!)響が≪アンコ≫を否定する。(呪われて不運になっちゃったりするんだから!)
(人魂が浮遊霊でなくって地縛霊だったら、厄介だね……)すみれがリンクに加わった。
(じ、じばくれい?)
(無念のまま非業の死を遂げた人の魂が、建物や土地に憑いてしまう幽霊のことだよ。最悪の場合、逆恨みして憑かれてしまう)
抑揚のないすみれの声は、無機質な廊下の雰囲気と相まって、足元から怖気を走らせた。
(ちょっと、やめてよお……)響がその場でじたばたする。
(今回の《ジェイド》は別に光を吸収して悪さをしようとはしてないみたい)
すみれが淡々とつづけた。
(放置しておいても大丈夫なんじゃない?)
(いや、いまはなんともなくとも、いずれ事件を起こすだろう。残念だがね……)
すこし間を置いてから、《アンコ》はリンクする。
(本来、われわれケイ素生命体は、恒星の光エネルギー調達のために宇宙を旅してきた。
現在、相互接続[コミュニケーション]を断絶している《ジェイド》は、エントロピーの増大則も気にせず、本能[プログラム]の赴くままにエネルギーをため込んで、見境なく光を吸収しようとする……)
3階生物室前の廊下に差し掛かったとき、響は廊下の先にうっすら緑色の明滅が起こったようなきがして足を止めた。
今一度目をこらす。
非常灯の光とは違う何か――暗闇の中で、ぼやっとした緑色の燐光が浮かんでいる。
まるで炎のような揺らめきを持つそれは、暗闇のなかで薄くなったり濃くなったりしていた。
《ジェイド》かどうかを判断するため、響は≪アンコ≫の提灯の先に収まるオプト・クリスタルを確認する。
《ジェイド》が接近すると、《アンコ》のオプト・クリスタルは赤く明滅して警告を放つのだ。
間もなくして《アンコ》の提灯が淡い明滅を始める――人魂は間違いなく《ジェイド》だった。
(響、すみれ! 変身だ!)
≪アンコ≫のリンクと同時に、響とすみれが紅水晶[ローズクオーツ]と紫水晶[アメシスト]双方の起動パスワードを唱えると、閃きとともに魔光少女へと変身した。
2
魔光少女に変身した2人は、目もくらむばかりの明るさを放つフォトナイザーの先端で廊下を照らし出した。
オプト・クリスタルの輝きが、瞬く間に暗闇を追い払う。
そして、緑色の燐光を放つ《ジェイド》の本体があらわになった。
それは、本来、理科室でほこりをかぶって保管されている人体解剖模型だった。皮を剥いだ状態——筋組織と血管と臓器と骨格とをむき出しにしている。
太もものつけ根で切断された人体解剖模型は、中空に滞空[ホバリング]していた。
たとえ作り物だとしても——。
不意に照らし出されたグロテスクな人魂の正体に、響とすみれは度肝を抜く。
「きゃああああああああああああ!」
まずは響が甲高い悲鳴とともに踵[きびす]を返し、全速力で来た道を引き返す。
恐怖でフリーズしていたすみれも、一拍遅れて反転し、一目散に撤退する。
2人とも目の端にうっすら涙を浮かべていた。
(逃げるな、戦え!)
≪アンコ≫のリンクも無視して響きたちは廊下を駆け抜ける。
走りながら、どのくらい引き離したか確認するためちらと振り返る。
一瞬、窓から差す水銀灯の病的な白い光が生み出した明暗によって、皮をはがれた人体解剖模型のグロテスクさを際立たせる。
気のせいか、プラスチック製の人体模型がてらてら光って、湿ったぬめりのようなものがあるように思えた。
それに、心臓や腸がうごめいて見える……。
浮遊する“生きた”人体模型は逃げ出した響たちを逃すまいと速度を上げて追跡を開始していた。
廊下の突き当たりで響とすみれは分散する。
一方が階段へ。
もう一方が教室へ。
響は階段を下り、すみれは教室に入って引き戸をたてきった。
階段を踊り場から踊り場まで跳躍して階下に降り立つ。
こっちにくるなとささやかな希望を抱いて、響がちらと階段を見上げる。
残念ながら、人体解剖模型は響を選んで後を追いかけてきていた。
「なんでこっちくるの~!?」響が倒れるようにまえのめりになってまた走り出した。
立ち向かわなければ――一転、魔光少女としての義務感でなんとか恐怖心をねじ込めた響は、戦闘靴[コンバットブーツ]の踵[かかと]を立て、急停止する。リノリウムの床できゅきゅきゅっと不協和音が走った。
つづいて振り向きざまフォトナイザーを構え、ぴんと腕を伸ばす。
「フォトニック・アンプリファ!!」
ちょうど階段から廊下に出てきた人体解剖模型の≪ジェイド≫が、殺到する深紅の光の帯に気づいてうろたえる。
刹那、≪ジェイド≫は紅い光の奔流[ほんりゅう]に飲み込まれた。
「やった!?」
肩で息をする響が、膝に手を置き、呼吸を整えながら言った。
膨張した光の霞[かすみ]が晴れて、人体解剖模型の残骸を現出させる……そのはずが、そこには何も存在しなかった。
「!?」
周囲を見回し、最後にまさかと思いつつも頭上を確認する。
天井には、人体解剖模型から飛び出した臓器――心臓、胃腸、大腸、小腸――や目玉や歯がばらばらに張り付いていた。
口をあんぐり開け、響が凍りついたのも一瞬、バラバラになった臓器がいっせいに降ってくる。
「ぎゃああああああああああ!」
たちまちその場から駈け出した響を追って、ばらばらに展開した五臓六腑が彼女を追い回す。
(響! いまどこ!?)
響を気遣うすみれからのリンクが届いた。
(2階の……)響が教室前に掲示されている標識に目を走らせる。(多目的教室前! 解剖模型がばらばらになって追いかけてきてる!)
(私も今から1階に降りる! そこで挟み撃ちにしてしとめるの!)
(了解!)
すみれの声に勇気を得た響が応える。
(私は1階まで《ジェイド》を引き寄せる!)
響は走りながらフォトナイザーを手前に放った。
すると魔法使いの弟子が操るほうきのように、フォトナイザーは主人の命令に対し忠実に従って中空で滞空。ただちに響はフォトナイザーにまたがって、狭い廊下を突き進む。
五臓六腑も追跡の手を緩めることなく追いかけてくる。
フォトナイザーにまたがったまま階段を急旋回する。
速度を落とさず、急傾斜の体制で階段を下りて行ったので、まるで垂直落下していくようだった。
(1階に出る!)
響はフォトナイザーの先端を握る手を強くして、天井すれすれまで上昇する。
宙返りした響に不意を突かれたかたちの五臓六腑は、勢いあまって響を追い抜き、廊下を直進してしまう。
(時間合わせ、どうぞ!)
攻撃のタイミングを合わせるべく、防眩バイザーに表示[ディスプレイ]される秒読み[カウントダウン]を読み上げるよう、響はすみれにリンクする。
(モード同期[ロック]完了! 誤差修正……脅威目標捕捉! 発射!)
約120m先にある階段から降りてきたすみれが、竹刀を構えるようにフォトナイザーを握りしめ、モード同期レーザーを発射した。
フォトナイザーにまたがった響も宙返りして、紅水晶[ローズクォーツ]の先端から必殺のレーザー攻撃を放つ。
「フォトニック・アンプリファ!」
すみれと響、2人の攻撃に挟まれた≪ジェイド≫は逃げ場を失い、紅と紫の閃光に圧迫されて消滅した。
「どうして≪ジェイド」は解剖模型と融合しようとしたのかな?」
≪アンコ≫とすみれに合流した響が人体解剖模型の残骸を見下ろして言った。
「付喪神[つくもがみ]だったりして」
すみれがぽつりと言い放つ。
「長い間、光も届かない生物室でほこりをかぶっていた解剖模型に霊が宿ったんじゃない?」
「君たちの言う霊——放電現象によって、光を求めていた《ジェイド》が共鳴し、融合したのかもしれないな」
《アンコ》が結論づけた。
「じゃあ……本当に幽霊[ゴースト]だったってこと!?」