PHASE=006 ベイトソンの罠 Diffraction
1
バスのアナウンスが『次は七条大宮・京都市水族館前』と告げた。
紅光響は、待っていましたとばかりに降車ボタンを押して、窓外に逃げ場を求めた。
約20分間——。
逃げ場のないバスのなかで、隣りあう異性と——しかも仲の悪い——途切れ途切れの会話をつづけるのは、ひどく骨が折れた。
もっとも、会話をつづけようとしていたのはもっぱら彼のほうで、話を振られるたび、響は素っ気ない答えを返していたのだが……。
彼とは、烏丸丸太町のバス停で“偶然”一緒になった。
大久保大地。
同学年の男の子で、響とは30cm近く身長差がある。
嫉妬するくらい顔がちいさくて、繊細そうな、どこかさびしそうな目をしていた。
手脚が長くてセクシーだ、と盛り上がる会話を聞いたことがある。
けれど、女子に気兼ねなく話しかけてくるところが、響は気にくわなかった。
どこか熟[こな]れた印象を受けたからだ。
彼が映画研究会に入部したのは、つい3日前のことだった。
活動内容がまだ明確になっていないからといって、彼はたった1日で年間スケジュールを立て、そのゴール地点を自主制作映画の完成と定めた。
響を部長に、すみれを副部長に決めたのも彼だった。
彼はぐんぐんみんなを引っ張って、物事を決めていく。
今日はハンディカメラの扱い方を習熟するため、京都市水族館で集合する予定だった。
赤いパーカーにチェック柄のスカートをはいた響は、耳にニットのイヤーマフを装着。
もちろん背負ったリュックサックにはいつも通り《ナマズ》くん——チョウチンアンコウと融合したケイ素生命体群兵器《ジェイド》の一体、通称《アンコ》が同行している。
(響、待ち合わせ時間をすでに5分遅刻しているぞ……)
腕時計を確認するまでもなく、《アンコ》が媒質通信[オプト・リンク]で知らせてくる。
(わかってるよお……)
「どうしていつも遅刻すんのん? 寝起き悪いんか?」
リンクを聞いていたかのようにタイミングよく彼が訊ねてくる。
彼は眼鏡にコートとマフラーをして、肩から提げたカバンには露出計とハンディカメラといった機材を詰め込んでいた。
それら機材のうん蓄を聞かされ、食傷気味になっていたところに、ずけずけと無遠慮に訊いてくるのだ。
「そっちこそ遅刻でしょ?」響がむっとして応酬する。
「俺は少なくとも“常習者”とちがうで」
彼とはずっとこの調子だった。
昨日も『好きな映画は?』と問い詰められて、響は言葉に詰まってしまった。
1年に1回、映画館に足を運ぶか運ばないかという程度の自分。
ヒッチコックやチャップリンの映画をレンタルして観てみたが、退屈ですぐに寝てしまった……。
『《ウォールストリート》』
レーザー核融合の研究を行っている大型投資先が出てくるので思わず借りて観た映画の名前を響は告げた。
『ふーん……』彼の返答は素っ気なかった。
映画制作を志しながらこの体たらくか。
他に選択肢のない自分を見透かされているような気がして、響はおもしろくなかった。
『じゃあ、大久保くんはどんな映画が好きなの?』
『《ホーリーマウンテン》』即答だった。
『知らない』
『最高傑作や』
確信を持って言う彼を信じて、実際響は《ホーリーマウンテン》を借りて観た。
DVDは、レンタルショップを梯子[はしご]して、ようやく見つけることができた。
感想は一言で事足りる。
冗長で退屈。
観ていてつらい。
その映画のなにが良いのかさっぱりわからなかった。
もしかしたら騙されたのかもしれない。
気づいたときには遅かった。
とにかく気にくわない……。
どうして彼に振り回されなければいけないのか。
バスが停車すると、響は彼から逃れるようにして、一歩を踏み出そうとした。
小柄な響はちいさく飛び跳ね、大きな声で「すみません!通してください……!」と断ったが、観光客で賑わう車内の人垣に阻まれ、まったく身動きがとれなかった。
困惑の色を浮かべる彼女に、彼がいたずらっぽく微笑みかけてきてくる。
「……?」
なんのことかといぶかっていると、突然、響は彼に右手をつかまれた。
「えっ!?」
「降りますぅ! 通りますぅ!」
そう言って彼は両肩で人垣をかき分けていく。
響は手を引かれ、後についていけばよかった。
バスを降りると、背後でドアが閉まった。
轟然とバスは走り去っていく。
梅小路公園の前でふたたび2人きりになってしまった。
響は気まずさをまぎらわすようにして「コンビニに行ってくる」と言い訳した。
「ほな、俺も行くわ」
ついてこないで、とははっきり言えない。
響が応えに窮していると、ゆう子先輩が声をかけてきた。
「響!」
京都駅のほうから、黒森ゆう子先輩と石英[せきえい]すみれが手を振って歩いてくる。
ゆうこ先輩はシャツチェニックにジーンズ、ミリタリーのアウターを羽織り、ボーイッシュな印象だ。
すみれはロングスカートにカーディガンを羽織っている。
定員に達していないわれらが映画研究会は、部員獲得を急いでいた。
そんな苦境を見かねて、ゆう子先輩は籍だけでもと入部を快諾してくれたのだ。
本来なら受験間近の先輩が部活動に参加する暇はないだろう。
それなのにこうして後輩に付き合ってくれるゆう子先輩のやさしさがありがたかった。
「今日は、大丈夫だったんですか?」
「心配しないで! なんとか推薦とれそうだしね」
ゆう子先輩は、屈託のない笑顔で響を安心させた。
「せっかく先輩きてくれてるのに、遅刻するなんて……」すみれが唇をとがらして響を責める。
「ごめんなさい!」きっかり90度に腰を折り曲げて、響が友人たちに詫びた。
「コンビニは行かんでいいの?」彼が間の手を差し挟んでくる。
「私は別に……」
「俺、トイレ借りてくる。これ、頼むわ」
響が顔をしかめるのも気にせず、彼はひょいと肩から提げていた機材のバッグを響に預けた。
あまりの重さに体が傾いだ。
そんなことも気にせず、彼は小走りに去っていく。
彼の背中を見送り、響は大きな嘆息を漏らした。
「響、大久保くんとなんかあったの?」ゆう子がすかさず訊いてくる。
「よくわからないんです」響は機材のバッグをそっと地面に降ろしながら応えた。「どうしてこんなにイライラするのか……。なんだか、彼と話していると、調子が狂うっていうか……」
ゆう子先輩がふっと笑う。
「笑い事じゃありません!」響が真剣に抗議した。
「ごめん、ごめん。ま、ようするに彼と一緒にいると、ドキドキするってことでしょう?」
「え……?」
ゆう子先輩は響の耳元に口を近づけ、そっとささやいた。「それって、好きってことなんじゃないの~?」
「やめてください!」
否定しつつも、ゆう子先輩のからかい半分の言葉が、響のなかで波紋を広げていく。
彼のことを好き?
この自分が?
そんなはずがない。
むしろ私は迷惑に思っている。
それに——。
ドジで背が低くって、遅刻の常習者。
自分がいちばん、自分のことが嫌いなのだ。
誰かが好きになってくれるはずがない……。
けれど、彼に握られた手をあらためて見つめると、不思議と胸が高鳴るのも事実だった。
この胸の苦しさは、いったい……。
「響、大丈夫?」すみれが心配そうに響の顔を窺っていた。
「ごめん、らしくないよね! あんちきしょー!」
そう言って響は機材のバッグを持ち上げた。
祝日ということもあり、京都市水族館は混雑していた。
響たちは海洋ゾーンのブラックライトに照らされる、幻想的なクラゲの水槽を見あげていた。
ちらとみんなの表情を窺う。
ゆう子先輩もすみれも、口元に笑みを浮かべて、縦に長い水槽に浮かぶクラゲたちを見上げていた。
彼は——。
薄暗い室内で、響は彼の姿を追った。
彼は、みんなから離れたところで1人、愁憂をおびた表情で水槽にハンディカメラを向けている。
その横顔が、響の視線に気がついて振り返る。
響はさっと顔を伏せ、彼のことを見つめていたと気づかれないように誤魔化した。
彼が響に近寄ってくる。
「どないしたん?」
「……ちゃんと撮れてるの?」
「ばっちりや」
「そう……」
手のひらがやけに汗ばんでいる。
響は勇気を振り絞るための儀式みたく、ぎゅっと自分の右手を握った。
「さ、さっきは……ありがとう」か細い声で響はとぎれとぎれに言った。
「さっき?」
「バスで、助けてくれたでしょう?」
「ああ……」つづく言葉を探して、彼はしばらく黙り込んだ。
言ってしまってから、響は激しく後悔した。
いったい自分はどんな答えを期待して、こんな言葉をかけたのだろう……?
いけない。
心臓を高鳴らせている自分を落ち着かせようと響は胸中につぶやいた。
好きってことなんじゃないの?
先輩の言葉につられて、変に意識してしまっているだけだ。
自分は彼のことをなんとも思っていない。
ただ、お礼がしたかっただけだ。
突然、ひどく尾を引く女性の金切り声が会場に響いた。
間を置いて、逃げ惑う人々がつぎつぎに会場を引き返してくる。
ただならぬ空気が水族館のなかを伝播していき、海洋ゾーンにいた人々もコースを引き返しはじめた。
パニック寸前の人の波にもまれて、響は一瞬、バランスを失って転びそうになる。
そんな彼女の手を握り、彼が支えてくれた。
響が見上げた彼の顔には、大樹のようにそびえ立って安心させてくれる笑みがあった。
「大丈夫か?」
響がうなずいて、返事をしようとしたそのとき、《アンコ》の媒質通信[オプト・リンク]が脳内に響き渡った。
(響、すみれ、非常事態だ! どうやら水族館に《ジェイド》があらわれたようだ!)
響が左右に目を走らせる。
人波のうねりをかき分け、すみれが合流しようと手を挙げていた。
ゆう子先輩は——。
人混みに紛れて確認できない。
どうやらはぐれてしまったらしい。
「ごめん!」
響は彼の手を振りほどき、人の波に抗うようにしてすみれと合流した。
彼が呼び止める声に後ろ髪を引かれながら、響はすみれとはぐれないよう、彼女の手を強く握りしめた。
2
海洋ゾーンを抜けてイルカステージに飛び出すと、出入口はてんやわんやだった。
悲鳴と怒声が渦巻くなか、さかまく海の大波のように押し寄せる群衆は、両耳を押さえながら逃げ惑っていた。
まもなく人々は四散し、そこには響とすみれだけが残された。
途端、響の耳が甲高い音を知覚した。
室内のどこかでテレビや電子機器が作動しているような、羽虫の羽音のような感覚——その音は人間の可聴領域を超えていると響は感じた。
目を転じれば、観客席の手すりや壁や空気がうなりをあげている。
共鳴を起こしているのだ。
その音の震源地——ひな壇になった観客席の先にある楕円形のプールには、引き潮を刻んで泳ぐ尾ひれが4つ。
水面から飛び上がったイルカたちが交互にハイジャンプして水しぶきをあげる。
響はイルカたちのまんまるの目が、翡翠[ひすい]の燐光を放っているのに気がついた。
(《ジェイド》がどうして水族館に……)
(確かなことは言えないが、《ジェイド》の魔光が発する音子[フォノン]にイルカが共鳴したのかもしれない……)
《アンコ》がリンクを飛ばして推理する。
(第2次大戦中、潜水艦のアクティブソナーに好奇心を示し、イルカが近寄ってきたという報告もある……)
「オプト・クリスタル・プリズムアップ!」
響とすみれが目配せして、オプト・クリスタルを引き寄せる。
変身パスワードを唱えると、彼女たちは紫から赤にいたるさまざまな色合いを変えて燃えあがる閃光を浴びながら、魔光少女へと変身した。
まず胸元のオプト・クリスタルが魔光を放出し、戦闘服[バトルドレス]を現出させる。
つぎに戦闘靴[ブーツ]とフォトナイザーがあらわれて、フリルスカートをたなびかせると、最後に背面でやわらかな銀色の光がはじけ、水晶クラスターのような大きなリボンが伸びていく。
変身を終えた魔光少女たちは、プールで泳ぐイルカたちを見下ろした。
(なんとか《ジェイド》だけを倒すことはできないの?)
《ジェイド》と結合したモグラの最期を思い起こした響がリンクする。
地下鉄のトンネルにあらわれた《ジェイド》モグラは、錐で穴だらけにされたようになって灰燼[かいじん]と帰した。
刹那、《アンコ》の提灯が赤い明滅をはじめる。
その輝きは淡く、不安定だった。
(響、まだ可能性はあるかもしれないぞ……)
(どういうこと?)
(《ジェイド》の反応が不安定ということは、イルカと結合してまだ間もないと推察される。《ジェイド》のみを焼き切れば、あるいは助けられるかもしれない……)
そのとき、ふたたび耳をつんざく高音程の悲鳴が鼓膜を奮わせた。
以前の甲高い音とは訳がちがう。
今度の悲鳴は一瞬にして不協和音に転じて、鼓膜が破れ、聴力を喪失したのではないかと錯覚するような痛みが走った。
周囲の空気が振動し、足下から疼痛[とうつう]が走る。
頭のしんが痛くなった。
立っているのがやっとだ。
響とすみれは両耳を押さえ、両目をぎゅっと閉じた。
(何なの!?)
プールのイルカたちがくちばし状の口を開けて鳴いている。
聞き取れないほど高音程の超音波がイルカステージ一帯の空気をびりびりと震わせ、衝撃波となって突き抜ける。
(《ジェイド》はイルカの超音波を増幅しているんだ!)
平衡感覚すら麻痺しそうな衝撃波の痛みを堪えながら、響はフォトナイザーを振るってその先端をイルカたちの頭部——《ジェイド》が巣くう額部に差し向けた。
「フォトニック・アンプリファ!!」
フォトナイザーの先端に内蔵[ドープ]された紅水晶[ローズクォーツ]が深紅の光の帯を放出する。
同時に2頭のイルカ《ジェイド》がプールから跳びあがり、空中で宙返りを見せてまた水中に潜っていく。
海面からは水しぶきがあがり、周囲に霧を発生させた。
と、第2陣となる別の2頭がプールから顔を出し、超音波を発した。
衝撃波が空気の歪みを扇状に拡大させながら霧を押し広げ、響の攻撃に迫っていく。
すると、それまで直進していた深紅の光はまるで目に見えないガラスのドームにぶつかったように、円弧状にねじ曲げられてしまった。
屈折率の勾配を有すイルカ《ジェイド》の衝撃波は、霧に超音波を印加することで屈折率の変化を誘起し、フォトニック・アンプリファを回折させたのである。
あらぬ方角へ回折[かいせつ]された紅いレーザーは、スタジアムの客席に直撃し、ちいさな爆発を引き起こした。
(フォトニック・アンプリファを、回折[かいせつ]した……)《アンコ》が愕然とする。
(響、下がって!)
すみれがリンクを飛ばし、モード同期[ロック]レーザーをフォトナイザーの先端から連射する。
(同期[ロック]完了、発射!)
イルカたちに向かって降り注ぐ紫色の光の驟雨[しゅうう]は、しかし、入れ替わりに水面からあらわれた別のイルカ《ジェイド》の増幅超音波に跳ね返されてしまう。
(攻撃が、利かない——)
ふたたびイルカ《ジェイド》たちの殺人的な合唱がはじまり、スタジアムの空気を蠕動[ぜんどう]させた。
振動数をあげた非常に強い超音波がステージをくまなく満たし、鼓膜に針を刺したようなすさまじい耳鳴りで意識が飛びそうになる。
《アンコ》がとっさに形成した光の障壁[エネルギーフィールド]によって多少の衝撃を吸収した魔光少女たちは、なんとかふらつく足をふんばって堪えることができた。
と、響はイルカたちの分厚い水槽ガラスにぴきり、と幾筋も縞が走ったのに気がついた。
超音波の衝撃波によって、水槽のガラスが破壊されようとしている。
そう、水槽を破壊すれば、イルカは水を失い、そして——
その先につづく残酷な作戦を思い浮かべた刹那、響は首を振って思考を寸断した。
たとえ直接手を下すわけではないにしろ、水槽を破壊するというのは、間接的にイルカを殺すことになる。
元に戻る可能性がわずかでも残されているのなら、《ジェイド》だけを破壊したかった。
だが、攻撃を回折してしまう敵にどうやって攻撃を命中させたらいいのか?
2人が攻めあぐねていたそのとき、爆音とともにプールに水柱が噴出し、不吉な爆発が起こった。
水しぶきが観客席に叩きつけられる。打ちつけられた大量の水が周囲に霧を生み、魔光少女たちの視界を妨げた。
霧のなかからは、イルカたちが発する末期の悲鳴が聞こえてきた。
(何が起こったの!?)
響とすみれはフォトナイザーにまたがってステージの上空を飛び、状況を確認する。
ステージの水槽が破壊され、プールの水位が急速に下がっていた。
何者かが水槽を破壊したのだ。
すでにイルカたちはプシュー、プシューと苦しそうな呼吸音を漏らしていた。
浮力を失ったイルカたちは自分たちの重みで肺が潰れ、酸素を供給できなくなる。
まるでゆっくりとのど元を締め上げて殺すように、じわじわと死に向かっていく……。
(イルカさんを助けないと……)
ステージに向かおうとする響を制止したのは、黒い魔光少女だった。
フォトナイザーにまたがった彼女は低姿勢ですみれと響の間を駆け抜けて、黒水晶[モーリオン]から黒い稲妻を一閃させる。
「《ソリッド・エキシマム》!」
黒い魔光少女の攻撃が、身動きのとれなくなったイルカたちに直撃する。
響とすみれは思わず目をそらした。
遠くで果物が砕ける音と、ひき肉を壁にたたきつけたような音が矢継ぎ早に起こった。
イルカステージは、虐殺の場と化した。
真っ白なステージは鮮血で汚され、行き場をなくした水槽の水がその血を洗う。
響のむせび泣く声が、静寂を取り戻したステージにこだましていた。
「ひどいよ、こんなの……」
フリルのついた戦闘服[バトルドレス]も、薄まった血に染まりはじめていた。
「響、もういかないと……」すみれが周囲に目を走らせながら響の肩をやさしく叩く。
遠くからはヘリコプターの旋回音も聞こえてきている。
これ以上長居して、魔光少女たちの存在をしられるわけにはいかない。
「ひどいよ……」
それでも響は顔をあげようとはせず、声を震わせた。
「お前たちはベイトソンの罠に陥っている」見かねた《アンコ》が厳しく言い放つ。
「ベイトソンの罠……?」その意味を判じかねてすみれが問うた。
「文化人類学者にして、サイバネティクスの生みの親、クレゴリー・ベイトソンによれば、イルカが1つの芸を覚えるとき、学習の跳躍——創発[エマージェンス]をやってみせるのだそうだ」
《アンコ》はイルカの死骸を検分しながら言う。
「イルカは魚が欲しくて同じ動作を繰り返す。しかし、調教師は同じ動作ばかりでは餌をあげなくなる。そこでイルカは別の芸を創発することで、また餌をもらえるようになる……」
「わたしたちも、創発が必要だってこと?」すみれが《アンコ》に問う。
《アンコ》が視線をそらした。
「ルーチンワークだけでは、《ジェイド》は倒せないということさ」
「じゃあ、あなたの言う創発って……動物を殺せるようになるってことなの!?」
響が泣きはらした顔をあげて訴える。
「甘ったれるな!」
すみれたちの前に、フォトナイザーから着地した黒い魔光少女が歩み寄るってくる。
防眩バイザーで素顔をかくしたまま、彼女は響の胸ぐらを掴んだ。
「動物は殺せない、だと!? それでよく京都の町を守るなどと大見得をきったものだ」
「だって……わたしたちまだ中学生なんですよ!?」響に代わってすみれが反論する。
「それがどうしたっ!」
黒い魔光少女が響を突き離した。
すみれは響に駆け寄って支え起こす。
「普通に生活して、時折、魔光少女の夢を見る……それもいいだろう」
黒い魔光少女が鼻を鳴らす。
「だが、そんな夢見がちな連中に、魔光少女の任が務まるはずがないし、その資格もない!」
「あなたは……いったい何者なの?」響が顔をあげて問うた。
「《ジェイド》を倒そうとしている……ってことは、わたしたちの味方?」
「扱いを誤れば、オプト・クリスタルはおまえたちの命を奪うことになる」
冷たく言い放ち、黒い魔光少女が響の胸元で輝くローズ・クォーツにフォトナイザーの先端を突きつけた。
「否——おまえたちだけではない。京都の町をも消滅させるだけの潜在能力[ポテンシャル]が、そこにはある」
響とすみれの視線が、《アンコ》に集まる。
オプト・クリスタルが京都を消滅させる?
聞いたことがない話だ。
《アンコ》は、オプト・クリスタルについてなにか隠しているのだろうか……?
外套[コート]を翻し、黒い魔光少女が背を向けた。
「もう一度よく考えるんだな。魔光少女になるということがどういうことなのかを!」
そう言い残し、彼女はその場を去って行った。