PHASE=008 家庭科調理室の攻防 UV Disinfection
1
バシイイイッ!!
人影もまばらになった私立聖光学園の校舎の一角。
家庭科調理室から、勢いよく床を叩く炸裂音が響き渡った。
つづいて紅光響の金切り声。
「待てえい!」
魔光少女の戦闘服[バトル・ドレス]に身を固めた響は、家庭科調理室でフォトナイザーを振りあげ、地を這う〝何か〟を必死に追いかけ回していた。
湿気を好み、家庭科調理室の生乾きの食器や排水溝の陰に潜んでいたそれは、カサコソと音を立て、机や椅子の隙間を縫うようにして素早く動きまわっては定期的に立ち止まり、長い触覚を巡らせている。
油で黒光りするその小さくてしぶとい不快害虫を、響はどうしても退治しなければならなかった。
「こらあ、ゴキブリ!!」
フォトナイザーを振り下ろした渾身の一撃を、それはあざ笑うかのように躱[かわ]していく。
そしてゴキブリは目で追えないほどの速度で壁を這いのぼっていった。
いままで隠れつづけていたのに、急にいったいどうしたというのか?
次の瞬間、壁の高見からゴキブリが羽根を広げて滑空してきた。
響の顔めがけて、飛んでくる——。
「きゃあああああああ!」
その場から身動きもできず、響はぎゅっとまぶたをつぶった。
一瞬の間。
鼻の頭が妙にかゆいと思ってうっすらまぶたを開けると、自分の鼻先にゴキブリが止まっていた。
ひっと一瞬、息を詰まらせる。
燐光を放つゴキブリの無機質な目と、響は目を合わせた。
それからめいいっぱい目を見開き、壊れたおもちゃのように絶叫する。
「うわああああああああああああああああ!」
軽いパニック状態に陥った響は、めちゃくちゃにフォトナイザーを振るった。
でたらめの攻撃が当たるはずもなく、ただ自分の体力を消耗するだけに終わった。
このままでは埒があかない——。
フォトナイザーの先端に内蔵[ドープ]された紅水晶[ローズクォーツ]に思念を送り、必殺のレーザー攻撃の準備をはじめた。
(響、落ち着け!)
響の相棒[バディ]《アンコ》が媒質通信で制止する。
チョウチンアンコと融合した《アンコ》は、他の《ジェイド》とはちがって地球での相互接続[コミュニケーション]手段——言語を獲得しており、彼らの侵略を未然に防ぐべく、魔光少女たちを導いていた。
(室内でフォトニック・アンプリファを出力すれば、君たちの学校も吹き飛ぶことになるぞ!?)
(ええ?じゃあどうすれば……)
(敵はわずか数センチの害虫に過ぎない。フォトナイザーを極小出力モードにして、冷静に、ただ1点のみを狙い撃ちしろ!)
狙うべき1点——それは、翡翠色に輝くゴキブリの背面だった。
考えてみれば、築半世紀という聖光学園の校舎にゴキブリの一匹や二匹いたとて不思議なことはなにもない。
黙って見て見ぬふりをしたところで響に何らかの実害が及ぶことなどないようにも思える。
だが、看過できない理由が、そのゴキブリにはあった。
ゴキブリの背中には、ケイ素生命体が外宇宙の技術力[テクノロジー]の粋を結集させて作り上げた自己制御型の群[スウォーム]兵器《ジェイド》が結合してしまっていたのだ……。
光を動力源にする《ジェイド》は、現在、制御不能[アウト・オブ・コントロール]に陥り、見境なくエネルギーを吸収しようとする。
魔光少女、紅光響は、そんな《ジェイド》を捕捉・尽滅するために立ちあがった。
だから《ジェイド》ゴキブリも見逃すわけにはいかなかった。
たった数センチの目標だったとしても……。
こうした《雑魚ジェイド》の駆除も、魔光少女たちに与えられた立派な任務なのである。
響がまごつく隙に、ゴキブリはカサコソと部屋の隅の大型冷蔵庫の隙間に逃げ込んでしまった。
床に耳をつけ、頭を横にして冷蔵庫の隙間を窺う。
必殺技は使えない。
目標は小さくて素早く逃げ回って確認できない……。
では、どうやって倒したらいいのか?
(そもそも、どうしてよりにもよってゴキブリに《ジェイド》が反応したの!?)
響がリンクで愚痴をこぼす。
(詳しいことはまだわからん。だが——おおかた、ゴキブリという生物の光感知能力に反応して融合してしまったのだろう)
思わずついたため息が大きかった……。
(そんな弱気でどうする!)
《アンコ》からの叱咤が飛んできた。
(君は〝1人で〟《ジェイド》と戦うと決めたのだろう?)
《アンコ》のリンクにはっとした響は、きっと唇をかんだ。
そう——もう誰にも頼らずに《ジェイド》と戦うと決めたのだ。
今日、響は、大切な友人を自ら喪失してしまったのだから……。
その日は家庭科実習の授業があった。
課題は、おやつ作り。
すみれは料理が得意ということもあり、以前から響においしい菓子を食べさせると張り切っていた。
おやつ作り実習は5~6人ずつの班ごとに行われる。
班分けは特に指定されていたわけではないが、おおよそ班分けの際のメンバーは固定化しつつあった。
響とすみれ、そして同じ映画研究会所属で唯一の男子学生・大久保大地がおなじ班に組み分けされていた。
特に友達の多くないすみれにとっては、実質、響や大地と同じ班以外に行くあてがあるわけでもなかった。
各班ごとに数種類の菓子を作ることになるらしく、この班では響と大地はプリン担当、すみれはクッキー担当、他の2人がパウンドケーキ担当になった。
お菓子作りというのは、独特の高揚感がある。
料理好きのすみれにとっては、バターの交じった生地の焼ける匂いはもちろん、チョコレートやバニラエッセンス、ナッツの香り……。
それらが渾然一体となって五感で楽しむことができる、一大イベントだった。
だがどうしても、今日のすみれは、自分でも驚くほどに菓子作りを楽しめていなかった。
理由は——響の態度にあった。
「うおおおお、おいしいプリンにするよおおおっ!」
響が腕まくりして、卵を攪拌する。
「おいこら紅光、泡立てたら“す”が入ってあかんようなる!」
「えぇ、大久保君、は、早く言ってよも~!!」
同じ映画同好会の部員である大久保大地を、響は嫌っているはずだった。
口を突いて出てくるのは、いつも彼の不満だった。
デリカシーがない、いちいち構ってきてウザい、映画通を気取ってる……。
いつもあんなに文句を言っている大地と、何故そんなに楽しそうに作業しているのか——?
おやつ作りという一種高揚感を与えるシチュエーション故か。
あるいは別の理由があるのか——?
こんなはずじゃなかった。
響と楽しくお菓子を作る。
響においしいクッキーを食べてもらいたい。
家からひそかに持ち出した隠し味のヘーゼルナッツシロップのポンプを押しながら、完成したあとに響に褒めてもらうことを想像して、思わず笑みをこぼしていたすみれは、そんな自分の想いに気づきもせず、男子とのおやつ作りにはしゃぐ姿に幻滅した。
けれど、クッキーがうまく焼けたら、きっと響は振り向いてくれる。
そう自分に言い聞かせ、すみれは1人黙々とクッキー作りに没頭しようとした。
——が、できなかった。
響は自分の気持ちも知らず、のんきに大地とお菓子をつくっていた。
まるですみれの存在を忘れてしまったかのように……。
おやつ作りは一通り終わり、実習の授業は終わった。
その日の授業は家庭科実習が最後だったので、クラスのみんなはそのまま試食タイムを楽しんだ。
響たちの班では、特にプリンが好評である。
「大久保君がほとんどやってくれたよね~、私は食べる係だから~~」
「紅光、おまえな~…」
プリンをぺロリとたいらげた響は、おそらくこの時間はじめてすみれの方に顔を向け、プリンを半分まで食べている彼女の前に焼きあがっているクッキーに手を伸ばそうとした。
「さぁ~て、クッキーのお味は……」
しかし、響は途中で手を止めてしまった。
クッキーは焼き焦げ、真っ黒の炭と化していたからだった。
「なぁ……」
すみれの様子がおかしいと察した大地は、響を小突いて言葉に気をつけろと警告してきた。
そこではじめて響がすみれの顔色を窺う。
すみれは唇を振るわせて、顔をうつむけていた。
小さな膝の上に両手の拳をぎゅっと握りしめている。
すみれは響と大地のことが気になりすぎて、クッキーを焦がしてしまったのだ。
クッキーを焼き直すほど実習時間に余裕はなく、すみれは響を振り向かせる挽回の機会を失い、敗北感にまみれていた。
「すみれちゃん……」
響が申し訳なさそうに言った。
強がって顔をあげ、すみれはやれやれとため息をついた。
「よかったじゃない、プリンが〝おいしく〟つくれて」
すみれは〝おいしく〟の部分を強調して言った。
まるで嫌味のように。
「クッキーは失敗しちゃったから捨てるね」
自嘲の笑みを漏らしたすみれが自虐的に言う。それから急に立ち上がると、焦げたクッキーを紙皿ごとごみ箱へ捨ててしまった。
「ちょっと、何するのすみれちゃん!?」
あからさまに感じが悪いすみれの態度に響が抗議する。
「失敗したって言ってるでしょ!!」
そう言い捨てると、すみれは家庭科調理室を飛び出していった。
「すみれちゃん!」
「ちょっ~とデリカシーないんとちゃうか?」
大地が冷やかすように言う。
「おまえのために張り切ってクッキー作っとったのに……石英[せきえい]の気持ち、少しは思いやってやれてたんか?」
「うっさい!」
響も家庭科調理室を飛び出した。
2
すみれが逃げ込む場所——。
それはたったひとつしかなかった。
図書準備室。
図書委員のすみれが貸し出しカードを整理したり、新刊の本や学校で買い入れる本のリクエストをまとめ、古い本を修復するための場所だ。
図書準備室には内側から鍵がかけられるようになっていて、すみれは一人になりたいとき、この図書準備室に逃げ込むのであった。
その日も、涙をこらえた顔をうつむけながら、すみれは準備室の鍵をかけた。
ドアに背を預け、鼻をすする。
(すみれちゃん!?)
刹那、響からのオプト・リンクがすみれの脳内に響き渡った。
(大丈夫!? 今どこにいるの……?)
リンクに応答しようか迷っていると、切迫した《アンコ》のリンクが割り込んできた。
(響、すみれ、家庭科調理室に戻ってくれ!)
(何があったの……?)
すかさず響が応答する。
(《ジェイド》が現れた! クラスメイトはすでに全員、引き上げている! 2人とも急行してくれ!)
(わたしは行かない……)
すみれがリンクする。
(どういうこと、すみれ!?)
響が感情的になって問う。
(お菓子作りも《ジェイド》退治も、大地くんと2人でがんばればいいじゃない!)
(ん!? 大地!? 何のことだ?)
《アンコ》が疑問を挟む。
無視して響が反論する。
(はあ!? なんで大地が出てくるの?)
すみれはリンクに答えない。
(ねぇ……いったいなに怒ってるのよ!?)
(……わ、私だって響にクッキー食べてほしかったもん……)
そういってすみれは一方的にリンクを切断した。
素直に謝ってしまえば、すぐに仲直りができたのかもしれない。
準備室で体育座りになって身体をぎゅっと丸めたすみれは、徐々に後悔しはじめた。
いまからでも遅くない。
自分から謝ろうか——。
そう思ったのも束の間、響のリンクが、すみれの感情を逆撫でた。
(《アンコ》! わたしはひとりでやる! 決めた!)
(どういうことだ、それは!?)
(すみれちゃんがいなくたって、《ジェイド》なんてわたし1人で十分だよ!)
すみれは必要ない、ということか……?
たしかに響は、すみれより先に魔光少女として活躍してきた。
すみれよりも経験もある。
自分が出る幕はない……。
どうしてこうも坂道をころがるように、響との仲が裂かれてしまうのだろう。
自分は今日、ただただ響においしいクッキーを食べてもらいたかっただけなのに——
そのとき、すみれの耳が甲高い高周波を知覚した。
耳鳴りのように、きーんと鳴る感覚だった。
なにかが起きている。
胸を焦燥感と不安が埋めていく。
そんな不吉な耳鳴りだった。
響がピンチに陥っているのではないか?
ゆっくりと立ち上がったすみれは、〝なにか〟の気配にはっとした。
修復を待つ古い本が積み上げられた準備室で、なにかが蠢いている。
息を飲み、警戒する。
次の瞬間、本棚の隙間から、ゴキブリの大群が飛び出してきた。
「きゃああああああああああああ!」
「きゃああああああああああああ!」
またしても響が絶叫する。
ゴキブリ《ジェイド》は、触覚を動かして高周波を放ち、仲間を呼び集めはじめたのだ。
築数十年の校舎のいたる場所に潜むゴキブリたちが、《ジェイド》の呼びだしに共鳴し、いまや家庭科調理室には床という床を埋め尽くすゴキブリの大群が集結していた。
背筋が粟立ち、響は地に足をつけずに地団駄を踏む。
「助けてえええええ!」
(仕方あるまい……レーザーを低出力に調整し、焼き切る!)
宙に浮かぶ《アンコ》が、提灯の先端に内臓[ドープ]した利得媒質[オプト・クリスタル]からレーザーを放ち、ゴキブリの大群の一角を蒸発させる。
だが、オセロゲームで一気に黒が逆転するように、一瞬にして別の仲間が床を黒く埋めてしまう。
ふたたびレーザー攻撃をしかけようとすると、ゴキブリたちは《アンコ》に反撃を開始する。
ブンブン不快な羽根音を鳴らして、ゴキブリの大群が《アンコ》に張りついた。黒い点の集まりのようになった《アンコ》は、ちくちくとゴキブリたちに噛まれ、苦悶の声を上げる。
(た、たすけてくれ……!)
倒しても倒しても埒があかないゴキブリたちに対し、響も《アンコ》も完全に手が出せなかった。
もうだめか……。
あきらめかけたそのとき、すみれの声が家庭科調理室に響き渡った。
「ディジンフェクション!!」
まばゆい紫色の霞が晴れかけ、ダークバイオレットの髪が整わないうちに、魔光少女に変身したすみれが現れ、フォトナイザーから紫色の、扇状光線を放つ。
すみれのオプト・クリスタル・紫水晶[アメシスト]は、有機物の2重結合部分にエネルギーを照射し、結合を破壊する力を持つ紫外線を操ることができる。
帯状に広がる紫外線をゴキブリたちに照射することで、すみれは殺菌灯のように不快害虫を駆逐しはじめた。
「響! 今よ!」
ゴキブリの大群が駆逐されて、背中に翡翠色の光を放つゴキブリが一匹、現れた。
響がすみれと視線をからませて、ひとつこっくり肯く。
「フォトニック・アンプリファ!」
阿吽の呼吸で放った響の極小出力レーザーがゴキブリ《ジェイド》をあっけなく蒸発させる。
「やったね! ナイスコンビネーション!」
ハイタッチする2人の魔光少女の陰で、《アンコ》はリンクにのせないよう注意しながら独り言をつぶやいた。
(またしても虫はためらいもなく殺すのだな……地球人はわからん……)
……戦いのあと、すみれは実習中、自分の態度があまりにもひどいものだったと謝罪した。
「大地くんと一緒に、響、なんだか楽しそうだったから思わず……」
「……もう、大地とはそんなんじゃないってのに……」
歩み寄り、響がすみれの肩を抱く。
すみれは頬を赤らめた。
それから一瞬、顔を見合わせた2人は、照れながら笑いあった。
気持ちが通じ合ったと思えた一瞬だった。
「あ~あ。それにしてもすみれちゃんのクッキーもったいなかったな~」
「こ、今度また焼いてあげるよ……!」顔を背けてすみれがぶっきらぼうに言った。
わたしには、仲間がいる——。
なんだかわからないけれど、響はぽっと胸が温かくなったような安心感にほほえんだ。